土佐藩の階級制度
もとに戻る
もとに戻る
土佐藩の歴史と階級制度

長宗我部(ちょうそかべ)氏の統治時代
戦国時代、土佐の雄と言われた長宗我部元親(もとちか)は、天正3年(1575)
37歳の時、宿敵一条兼定に四万十川の戦いで勝利し土佐国一国を平定した。
さらに、本能寺の変で織田政権が混乱している隙に乗じて、阿波、讃岐、伊予を次々
と攻略、天正13年(1585)47歳の時点で四国全土をほぼ支配下に治めた。

しかし、天下を平定した豊臣秀吉の讃岐・伊予返還命令に応じなかったため、全面的
対決となったが、四国征伐の秀吉軍の圧倒的兵力に抗し切れず降伏、ようやく土佐一国
のみ安堵された。
その後は秀吉に臣従したが、天正14年(1586)秀吉の九州討伐に参加、先陣を担当
したものの島津軍に大敗して嫡男の信親(のぶちか)が戦死し、失意のうちに側近たち
の意見を排して4男の千熊丸を後嗣とした。千熊丸は、秀吉の奉行の一人増田長盛の一
字を授かって盛親(もりちか)と名乗った。

慶長4年(1599)盛親の死に伴い盛親は家督を継いだが、翌慶長5年(1600)東西
を二分する関ヶ原の戦いにおいて、逡巡の末、西軍に加担した。盛親軍は南宮山の麓に
着陣したが、動けないまま西軍は敗走、戦後家康に謝罪したものの領土没収、死一等は
減じられて土佐から追放された。

代わって、関ヶ原の戦いで徳川の勝利に貢献した遠江掛川城主・山内一豊が、土佐に
移封となり、慶長6年(1601)浦戸城に入城、初代土佐藩主となった。


一方、京都に隠遁していた盛親は、慶長19年(1614)、豊臣側の参陣要請に応じて
密かに大阪城に入った。翌年の夏の陣で、盛親軍は八尾方面に出撃して徳川方の藤堂軍
を打ち破って潰走させたが、各地で豊臣方が敗北、豊臣家は滅亡した。盛親は逃亡した
が捕えられ、お家再興の夢も空しく京都賀茂河原刑場の露と消えた。
図1 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の肖像画

図2 長宗我部盛親(もりちか)の肖像画

図3 秀吉の四国征伐:各武将進軍状態

図4 関ヶ原の戦い:東西武将布陣状態

山内氏の統治と士族の階級制度
の意見を排して4男の千熊丸を後嗣とした。千熊丸は、秀吉の奉行の一人増田長盛の一
土佐藩初代藩主の山内一豊は、慶長6年(1601)浦戸城に入城した。遠江掛川城時代
に比較すれば大幅な加増であり、ただでさえ人手も足りないのだから、普通なら地元の
元家臣を大量に雇用するのが習わしであったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の
注)一領具足:長宗我部氏が武装農民や地侍を対象に編成した半農半兵の兵士および組織。
武士の多くは新領主に反発し、旧領主の復帰を求めるなど、各地で紛争を起こした。
これに対して一豊は、重要なポストを主に臣下で固める一方、本山氏・谷氏・武市氏
など、有能な長宗我部旧臣を一部登用した。
山内一豊は土佐統治の中心拠点として高知平野内の大高坂山に築城を決め、奉行とし
て関ヶ原の戦いの後に浪人となった百々綱家を7000石で招聘した。大高坂山の高知城は
慶長8年(1603)完成した。一豊は城下町の整備を進めるとともに、安芸・中村・窪川
・宿毛など藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えた。

このように、藩政の中枢を山内家家臣(上士)で独占した結果、下位に位置づけられ
た長宗我部氏旧臣(郷士・下士)との二重構造が幕末まで続くことになった。

郷士の差別について: 土佐藩の身分は、大きく上士と下士の2つに分かれ、上士は、
「家老、中老、馬廻組、小姓組、留守居組」の5階級が、下士は、「郷士、用人、徒士、
足軽、小者」の5階級とされた。郷士は下士の最上位に位置付けられ、その中の特別格
が白札郷士であり、下士の中で唯一城内立ち入りが許された。(例;武市半平太)
上士は、郭中(かちゅう・かくちゅう)と呼ばれる高知城周辺の決められた範囲に屋
敷を持ち、下士たちは、郭中の西側にある上町、東側の下町、または村落に居住した。
また下駄を禁じられ、衣服の質も差別があり、さらに、下士と上士の結婚も認められ
ず、事あれば、上士の下士に対する切捨て御免が認められていた。

郷士は基本的には在郷武士であり、旧領主である、長宗我部氏遺臣の一領具足の系譜
を引く者が多い。慶長18年(1613)、香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士
がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行う度に取り立てられてきた。これ
らは長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとと
もに、新田開発による増収を狙ったものであった。
元禄期には郷士も公役に就くことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も
出てきた。幕末には郷士総数は800人を数え、内370人が大組と呼ばれ、おのおの家老
に属しており、御預郷士と呼ばれた。残りの430人は小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付
郷士として、非常時に規定の場所での海防に従事していた。多くの郷士は農村や山間部
に居住したが、城下の上町や下町に居住する者もいた。(例;坂本龍馬)
図5 山内一豊の肖像

図6 山内忠義の肖像

図7 在りし日の浦戸城:位置と平面図

図8 創建当時の高知城:俯瞰図

写真1 航空写真:浦戸城・高知城・岡豊城の位置関係

図9 郭中だった町街

幕末の土佐藩
土佐の藩政が確立したのは2代山内忠義の時代であり、藩財政も江戸時代中期頃まで
は比較的安定的に推移した。しかし、宝暦期(1751〜 1764)になると、一揆や農民
の他領への逃散などが藩政を揺がした。9代藩主山内豊雍は質素倹約を基本とする藩政
改革(天明の改革)を行い、その後藩政は小康状態を持続した。

幕末、天保14年(1843)13代藩主となった山内豊熈(とよてる)は、馬淵嘉平など
改革派を起用して藩政改革に乗り出したが失敗に終わり、守旧派と改革派の対立構造を
生み出す結果となった。
豊熈の死後、弟の豊惇(とよあつ)が第14代藩主となったが急死し、その弟・豊範
(とよのり)がわずか3歳であったため、家督は分家の豊信(とよのぶ)が継承するこ
ととなったた。

嘉永元年(1848)、15代藩主に就任した山内豊信(容堂)は、旧臣の政治を嫌い、
革新派のリーダー吉田東洋を起用、嘉永6年(1853)新たに設けた「仕置役(参政)」
に任じて家老を押しのけて、西洋軍備の採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・
身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行した。
豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を
持ち幕末の四賢侯と称され、幕政にも積極的に関与し、老中・阿部正弘に幕政改革を進
言するなどした。
しかし阿部正弘の死後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣者問題で鋭く対立した。
これに対し、井伊は大老の地位を利用し、政敵を徹底的に排除し処罰した。いわゆる
安政の大獄であり、安政6年(1859)容堂は、斉昭・春嶽・宗城らとともに幕府より
謹慎の命を受けて隠居し、若干14歳の豊範が16代の土佐藩主となった。


安政7年(1860)桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、全国的に尊王攘夷の波
が広がった。土佐藩でも、武市半平太(瑞山)を首領とする「土佐勤王党」が台頭し、
容堂の腹心である公武合体派の吉田東洋と対立、遂に文久2(1862)東洋を暗殺する
に至った。この時、土佐勤王党の一員であった坂本龍馬は武市半平太と決別し、より
広い天地を求めて土佐を脱藩している。
その後、半平太(瑞山)は門閥家老らと結び藩政を掌握、対外的にも長州藩や攘夷
派の公家と接触するなど、尊王攘夷派の中心的な存在の一人となった。

しかし、文久3年(1863)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのクー
デター(八月十八日の政変)が強行されて以後、公武合体派が勢いを取り戻し、容堂
も謹慎処分を解かれ土佐に帰国、再び藩政を掌握した。
容堂は、まず吉田東洋を暗殺した政敵、土佐勤王党の弾圧に乗り出した。東洋の腹
心であった後藤象二郎に命じて党員を残らず捕縛・投獄、拷問にかけて暗殺の首謀者
を追求した。最終的に瑞山は切腹、多くの党員も死罪に処せられ、土佐勤王党は壊滅
した。以後、土佐藩は、容堂と後藤象二郎によって主導されりことになるが、容堂が
最後の最後まで佐幕にこだわった結果、倒幕へと傾いた時代の動きに乗り遅れ、明治
維新に至るまで、薩長の主導権を奪うことができなかった。
その一方で、藩内では東洋の門下より後藤象二郎や板垣退助、岩崎弥太郎ら、脱藩
した郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など、幕末・明治を代表する人物を輩出した。
写真2 山内容堂肖像写真

写真3 吉田東洋肖像写真

図10 武市半平太(瑞山)獄中の自画像

写真4 板垣退助肖像写真

写真5 後藤象二郎肖像写真

写真6 岩崎弥太郎肖像写真

参考文献
写真・図面引用先
写真1 航空写真:浦戸城・高知城・岡豊城の位置関係:http://blogs.yahoo.co.jp/ie_tora/30356117.html どっか行った旅の記録
写真2 山内容堂肖像写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/山内容堂
写真3 吉田東洋肖像写真:http://blogs.yahoo.co.jp/chu_chan24/63621872.html 龍馬伝 吉田東洋
写真4 板垣退助肖像写真:旧ふきのとうドットコム
写真5 後藤象二郎肖像写真:旧ふきのとうドットコム
写真6 岩崎弥太郎肖像写真:旧ふきのとうドットコム

図 1 長宗我部元親の肖像画 :https://ja.wikipedia.org/wiki/長宗我部元親
図 2 長宗我部盛親の肖像画 :http://www.kyoto-agarusagaru.com/18/27/special_detail.php 長宗我部盛親
図 3 秀吉の四国征伐 :http://blog.livedoor.jp/destiny_5791/archives/3311910.html cogito ergo sum. 秀吉の四国征伐 2
図 4 関ヶ原の戦い :http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/18799786.html (日本の武将)関ヶ原の戦い 布陣
図 5 山内一豊の肖像 :https://ja.wikipedia.org/wiki/山内一豊
図 6 山内忠義の肖像 :https://ja.wikipedia.org/wiki/山内忠義
図 7 在りし日の浦戸城 :http://mahoroba.tea-nifty.com/blog/2014/03/post-426f.html 浦戸城: 毎日が漂流中1
図 8 創建当時の高知城 :http://homepage3.nifty.com/yogokun/kouti.htm 高知城
図 9 郭中だった町街 :http://www.geocities.jp/kyoketu/sub9.html 高知市の歴史
図10 武市半平太自画像 :https://ja.wikipedia.org/wiki/武市瑞山 獄中自画像」

土佐藩参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/山内一豊

https://ja.wikipedia.org/wiki/長宗我部元親

http://www.kyoto-agarusagaru.com/18/27/special_detail.php 長宗我部盛親

https://ja.wikipedia.org/wiki/土佐藩

https://ja.wikipedia.org/wiki/山内豊範

http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/qa/other/post-111.php 坂本龍馬記念館 郷士の差別について

http://zukanda.jp/image/9903 土佐藩最後の藩主「山内容堂

http://www.ryoma-den.com/shiryou/seido.html 坂本龍馬人物伝 土佐藩の階級制度

http://blog.livedoor.jp/destiny_5791/archives/3311910.html cogito ergo sum. 秀吉の四国征伐

http://www.geocities.jp/kyoketu/sub9.html 高知市の歴史


もとに戻る