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 勝 海舟(かつ かいしゅう)文政6年(1823)-明治32年(1899年)

 幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、武家官位が「安房守」
だったことから、明治維新後は安芳(やすよし)と名乗った。「海舟」は号で、師であり妹
の夫でもあった佐久間象山の直筆「海舟書屋」からとったもの。            

 生い立ちと青年時代                        
 海舟の父 小吉は幕府ご家人男谷(おだに)平蔵の3男で、文化5年(1808) 7歳で勝元良
の養子となった。
勝家は近江国勝村の出で、天正以来徳川に仕えてきた。しかし石高僅か41石、小普請組
所属の貧乏御家人で、小吉も生涯無役で生活は苦しく、刀剣ブローカーや鑑定屋などで生計
を立てていたらしい。剣術は相当な腕前だったようだが、評判の暴れん坊で市井無頼の徒と
付き合い、文政2(1819)年に元良の一人娘信(のぶ)を妻にし、男谷邸内に新居を構えてか
らも 家庭をかえりみず、海舟が生まれた時も、博打喧嘩が元で座敷牢に入れられていた。
 しかし息子のことを深く愛していたらしく、海舟が9歳の時犬に噛まれて大怪我をした折
りは、日頃信仰していた能勢妙見堂(墨田区本所)で毎晩水をかぶって息子の回復を願い、
毎夜海舟を抱いて寝た、というエピソードも残っている。         

 剣が得意だった父の血を受け継いだのか、若き日の海舟は熱心に剣術の稽古をしている。
当初は父の実家男谷家の養子に入った幕末屈指の剣豪精一郎から直心影流を習い、その後、
精一郎の弟子で中津藩出身の島田に就いて修行を重ね、天保14年(1843、21歳)に 免許
皆伝を受けている。さらに弘化2(1845)年には、やはり虎之助の勧めで 筑前藩のお抱え蘭
学者、永井助吉(青崖)に師事し蘭学の修得に取り組み、幕府の馬役だった都甲市郎左衛門
からも蘭学指導を受けた。    
 蘭学修業中の有名なエピソードとして、蘭方医赤城某に10両を払って、単語や短文を約10万語を
収めたオランダ語辞書、『ヅーフハルマ』を借り受け、1年がかりで2部書き写して1部を売り苦しい
家計の助けにしたという有名な話が伝わっている。                      

 こうした艱難辛苦の末、小吉が49歳で生涯を閉じた嘉永3(1850)年、海舟は赤坂坂田町のあばら
家に「氷解塾」を開き、蘭書や西洋兵学を教授するまでになった。              
 そしてひたすら未来を信じて自らを磨き、実力を蓄え続けた海舟の運命を 劇的に変える出来事が
起こった。嘉永6年(1853)6月、ペリー提督率いるアメリカ艦隊の浦賀沖来航と開国要求である。
 写真1 壮年時代の勝海舟

 写真2 熟年期の勝海舟(明治初期)

 図1 勝海舟青年期史跡マップ

 写真3 勝海舟生誕地跡(両国四丁目 両国公園内)

 写真4 ズーフ.ハルマ(大野市歴史博物館)

 壮年期・軍艦奉行に
 嘉永6年(1853)ペリー艦隊来航。開国を要求された幕府は、海防に関する意見書を、
幕臣から町人に至るまで広く募集した。この時海舟が提出した「海防意見書」が老中の目
にとまり、念願の役入りを果たしたのである。以後の海舟の人生を略歴的に述べる。

 安政2年 1855 長崎の出島に隣接する幕府西役所の敷地内に海軍伝習所が開設され、
海舟はその一期生として入門した。海舟はオランダ語ができたため教監を兼ね、伝習生と
オランダ人教官との連絡役も務め、第一期から三期まで延べ5年間を長崎に滞在した。

 安政4年 1857 永井尚志以下長崎伝習所の学生の一部が蒸気船「観光丸」で江戸に移動、
築地の講武所内に軍艦操練所が開かれた。

 安政6年 1859 長崎海軍伝習所は閉鎖。海舟は江戸に戻り軍艦操練所教授方頭取となる。

 安政7年 1860年 幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため 遣米使節をサンフランシ
スコへ派遣。護衛を目的に咸臨丸も渡航、教授方として海舟ほか乗船した。 同船には、
の通訳ジョン万次郎、福澤諭吉らも乗船していた。往路は同乗した米国士官の指導を受け
たが、帰路は海舟ら日本人の手だけで帰国することができたという。

 文久2年 1862 40歳の秋、坂本龍馬が来訪、入門する。 同年、軍艦奉行に就任。

 元治元年 1864 坂本龍馬の協力も得て神戸に海軍操練所を開設、薩摩藩士や土佐脱藩者
らが集まった。塾頭が龍馬。 勝海舟は、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指す
が、幕府保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。 海舟が西郷
隆盛と初めて会ったのはこの時期、大阪においてである。
勝海舟 大坂で西郷吉之助に坂本龍馬と同志達のの身柄を託す
 図2 長崎出島と西役所の付近のマップ

 図3 西役所詳細マップ(役所の東半分が海軍伝習所)

 図4 西役所と海軍伝習所の絵図

 写真5 観光丸模型
   観光丸は長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより幕府へ贈呈された.
   建造:1852-53 排水量:353トン 全長:65.8 m 砲艦.

 写真6 咸臨丸模型
   咸臨丸(かんりんまる)は幕末期に江戸幕府が保有していた初期軍艦.
   建造:オランダ 1855-56 排水量:620トン 全長:48.8 m 砲艦.
 写真7 築地海軍操練所跡

 写真8 築地海軍操練所
   当初の建物は元治元年(1864)の火災で焼失した.
   写真は明治2年(1869)頃の築地海軍操練所、後に海軍兵学校となる.

維新前夜・幕府の軍事総裁に
 慶応元年 1865年 奉行として淀川の警備のため、右岸高浜、左岸楠葉台場を完成させた。

 慶応2年 1866年 軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を一任される。
海舟は単身宮島大願寺での談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜が停戦の勅命を引き
出したので、憤慨した海舟は御役御免を願い出て江戸に戻ってしまう。
 慶応3年 1867 徳川慶喜は大政を奉還。坂本龍馬と中岡慎太郎、京都で暗殺さる。

 慶応4年 1868 1月早々 鳥羽伏見で旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、戦況不利
と見た徳川慶喜は大坂城を密かに脱出、海路 江戸に逃走した。その後、薩摩・長州藩を中核
とした官軍・新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦う戊辰戦争が拡大。
 この時期海舟は幕府軍の軍事総裁に任命され、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期
停戦と江戸城無血開城を主張。まずは山岡鉄舟を駿府まで進軍の西郷隆盛との交渉に向かわ
せて基本条件を整え、江戸城総攻撃の直前に薩摩藩江戸藩邸で西郷隆盛と会談、江戸城開城
と徳川宗家の今後などについて交渉、江戸城下市街戦を回避した。
 明治維新以降
 明治改元 1868 10月12日、駿府に到着。鷹匠町に居を移す。以後東京と駿府を行き
来し、徳川慶喜の処遇について新政府と交渉を継続。

明治5年 1872 50歳 海軍大輔。赤坂氷川町へ転居。以後晩年の殆どをここでで過ごした。
その後は、旧幕臣の代表格として、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿などを歴任。 晩年
の人生は、徳川慶喜を明治政府に赦免させることに尽力した。
明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社(明治6年に設立された日本最初の
近代的啓蒙学術団体)へ参加。 また、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)
の繁栄にも尽力した。 一方、西南の役で逆賊の臣となった西郷隆盛の名誉回復にも奔走、明治天皇の裁可を経て
上野への銅像建立を支援している。 また、アジア同士が戦火を交えるべきではないとする立場から日清戦争には
反対の立場をとり、清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は、堂々と敵将である丁
の追悼文を新聞に寄稿している。

 明治31年 1898 皇居参内をようやく許された徳川慶喜が氷川町、勝海舟邸訪問。

 明治32年 1899 1月17日脳溢血で倒れ19日死去(76歳)。墓地は大田区・洗足池。
                写真10 勝海舟の墓地がある御手洗池

 写真9 晩年の勝海舟

 写真12 勝海舟寓居跡

 図6 勝海舟寓居跡マップ

 写真11 勝海舟が寓居に自ら植えた銀杏(氷川小学校)

            参考文献
 写真・図面引用先
  写真1 http://panorama.photo-web.cc/<半角波形>panorama/katusakamoto/index.html 勝海舟・坂本龍馬の銅像と歌碑を建てる会
  写真2 熟年期の勝海舟:https://ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟
  写真3 勝海舟生誕地跡:http://welcome-sumida.jp/entry/2013_02_05_1524 すみだの偉人】勝海舟の足跡を追う
  写真4 ズーフ.ハルマ:http://plaza.rakuten.co.jp/echizenn/diary/201404190000/ 大野市歴史博物館『ヅーフハルマ』
  写真5 観光丸模型:http://blog.livedoor.jp/gumizaki2/archives/2009-12-22.html 撮影日記
  写真6 咸臨丸模型:http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/kankoujouhou/rekishibunkazai/kanrinmaru.htm 木古内町ホームページ
  写真7 築地海軍操練所跡:http://asiabaku9.exblog.jp/8696639/ お宅探訪 第十七回 堀田築地中屋敷&軍艦操練所
  写真8 築地海軍操練所:http://hobby.life.coocan.jp/rintarou3.htm 佐久間象山との出会い
  写真9 晩年の勝海舟:http://ht-36.at.webry.info/200608/article_1.html
  写真10 勝海舟の墓地がある御手洗池:http://www.kmine.sakura.ne.jp/tokyo/kouen/senzokuike/senzokuike.htm 洗足池公園
  写真11 勝海舟が寓居に自ら植えた銀杏:http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/roppongi/akasaka/hotplace/11302369/ 勝海舟邸跡 [赤坂]の観光
  写真12 勝海舟寓居跡:http://bakutora.japanserve.com/spt-edo-5-katsu-ph1.html 海舟邸跡
  図 1 勝海舟青年期史跡マップ :http://welcome-sumida.jp/entry/2013_02_05_1524 すみだの偉人】
  図 2 長崎出島と西役所の付近のマップ :http://www.shotentai.com/nakaoka/nakaoka-6.html 中岡慎太郎の最期(近江屋)(翔天隊.com)
  図 3 西役所詳細マップ :http://asiabaku9.exblog.jp/5442265/ 東都アロエ 長崎海軍伝習所の舞台5
  図 4 西役所と海軍伝習所の絵図 :http://plumtour.com/kyoutomap.html 京都 観光・ホテルマップ
  図 5 築地海軍操練所跡周辺マップ :http://shiba-ryotaro-journey.blogspot.jp/2014/08/3.html 司馬遼太郎への旅: 竜馬がゆく
  図 6 勝海舟寓居跡マップ :http://blog.goo.ne.jp/hkanda_1933/e/5e1ed56055ae101cb1323a336a6b01e7 赤坂

勝海舟参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟

http://welcome-sumida.jp/entry/2013_02_05_1524 すみだの偉人】勝海舟の足跡を追う

https://ja.wikipedia.org/wiki/軍艦操練所

http://hobby.life.coocan.jp/rintarou3.htm 佐久間象山との出会い

https://ja.wikipedia.org/wiki/万延元年遣米使節

http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/5f4e3a83c4767990c3bcc6d408a1c7f8 ひろむしの知りたがり日記

http://katsukaisyu.com/katsukaisyu/history/ 勝海舟の会 勝海舟の年表

http://iyashitour.com/archives/21318 勝海舟の名言・格言 年譜

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