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小倉戦争と海戦のあらまし

 慶応二年(1886)の第二次長州征伐は、長州へ上関口(かみのせきくち/四国側)、
芸州口(げいしゅうくち/山陽道)、石州口(せきしゅうくち/山陰道側)、ならびに
小倉口(こくらくち/九州側)の四方向から一斉に攻め込む方法が取られた。
 このうち坂本龍馬や海援隊の一部が参加したのが小倉口ノ戦い、つまり小倉戦争での
海戦である。その経緯について、司馬遼太郎の「龍馬はゆく」に以下の記述がある。
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 折しも、龍馬はユニオン号の長州引渡しで下関に来て桂小五郎と会談中だったのだが・・
 そこへ、オテントサマ号に搭乗して下関に帰って来た高杉晋作が、がらりと襖を開いた
のである。 のろのろと座敷を歩き、「なあ坂本さんよ」と、あいさつもせずにいった。
「願い上げたい儀があります」そう言って、龍馬の前にぴたりとすわった。
「戦をやって賜っせ いま大仕事を考えている。ところが、わしの身は一つであります。
協けて賜っせえ」。「どんな大仕事でありますか」と龍馬は晋作の口まねをした。
「海を越えて幕軍の本拠地である小倉を奪い取ることであります」「ほほう」
 龍馬はさすがは高杉だと思った。小倉は小笠原十七万石の城下で、この藩は代々九州
探題の役目を兼ね、一朝事あるときは九州の諸大名を指揮することになっている。
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 結論として、長州手持ちの軍艦を二つに分け、
第1艦隊:高杉指揮 旗艦オテントサマ号(丙寅丸)と癸亥丸
第2艦隊:龍馬指揮 旗艦ユニオン号(乙丑丸)と康申丸
とした。いずれにせよ、大型艦のそろった幕府海軍に対抗するには、機先を制した
迅速で大胆な作戦行動しかないだろう。
 図1 当時の関門海峡と龍馬・高杉艦隊の航路
 図2 現在の関門海峡

  写真11 オテントサマ号(丙寅丸)
  全長:36.9m 鉄張94t

  写真 12 ユニオン号(乙丑丸)
  全長:45.6m 木造300t

 写真13 幕府艦隊旗艦:富士山丸
  全長:55.8m 木造1000t

 写真14 幕府艦隊:翔鶴丸と同型の回天丸
  全長:59.4m 木造350t
 高杉、龍馬艦隊の第1次作戦

 高杉晋作と龍馬の最初の作戦は6月17日と決まった。近いうちに小倉側から長州への
上陸作戦が実行されるという情報があり、先手を打つことになったのである。富士山丸を
旗艦とする幕府艦隊5隻はまだ周防大島にいる。今しかない。

 この海戦の詳細については、後々龍馬が図解付きの手紙を兄の権平に送っている。司馬
遼太郎はこの手紙も参照しながら「龍馬はゆく」の中でその様子を克明に描いているが、
そのあらましは以下のようなものである。
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 六月十七日夜明け前、龍馬艦隊と高杉艦隊は下関を密かに出航した。 濃い霧の中で、
高杉艦隊は田野浦方面に去り、龍馬艦隊は門司方面に向かった。
 艦橋にいた龍馬は艦長の菅野覚兵衛に言った。「この霧を使わにゃ損だ」。要は倉庫に
しまってある大大砲を使おうというのだ。使いにくい代物だし、発射すれば艦が揺れる。
覚兵衛は最初難色を示したが、「じゃあ使うか」と仕方なく同意した。

 やがて、龍馬の望遠鏡の中に門司の兵舎や砲台がうっすら見え始めた。
「覚兵衛どんそろそろ始めるかネヤ」。「マッコト」と覚兵衛は承知し砲手の白峯駿馬
に発砲を命じた。 舷側砲が一斉に砲撃を開始し、艦内に轟音がとどろいた。砲弾が霧
の中を飛んで行き、門司砲台の中に落ちて目がくらむような火光をあげる。

 あわてて門司側の沿岸砲が乱射を始め、砲弾がマストをかすめ空中で炸裂し、舷側に
猛烈な水しぶきが上がる。龍馬は甲板に降り、砲手達を激励し続けた。
 ユニオン号は門司沖を素早くゆきつ戻りつ砲撃を続けたが、一方の僚船庚申丸は風帆
船で動きが遅いため、20発も被弾したという。

 やがて、門司砲台が沈黙し、ここぞとばかりに、霧の中に潜んでいた5、60隻の和船
が、櫓を漕ぐ掛け声もすさまじく陸地に接近し上陸し始めた。山縣狂介率いる奇兵隊など
500名の陸戦隊であり、その上陸の成功で龍馬艦隊の任務は完了した。

 「覚兵衛どん。この霧にかくれて巌流島の敵艦隊に近づこうではないか」と龍馬。
「敵は三隻ですぞ」「ヤッチャナイ」と龍馬。絶好の濃霧だ。
 庚申丸を門司沖に残してユニオン号は巌流島に近づいた。小倉藩と肥前藩の軍艦3隻に
向かって大大砲を数発撃った。ユニオン号は大揺れし、そのすさまじい轟音が海峡の山並
みに反響し、あたりは異様な雰囲気に包まれた。
 敵艦は狼狽して逃げ出し、「我々も逃げよう」と龍馬たちも門司沖に引き帰した。
望遠鏡で陸地を望むと、上陸兵と小倉兵との激戦が絵巻物のように展開して見えた。
「覚兵衛どん、みろ」龍馬は望遠鏡をわたした。「長州が勝っちょりますな」
「いや、長州が勝っちょるんではない。町人と百姓が侍に勝っちょるんじゃ」
そのことに、龍馬は身震いするほどの感動を覚えた。
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 その後の小倉戦争は、高杉、龍馬艦隊の援護のほか長州からの砲撃も加わる
総力戦様の相となった。小倉側もよく戦い戦線は一進一退の膠着状態になる。
しかし、戦局は徐々に長州側有利の方向に傾き、見切りをつけた小倉口総督の
小笠原長行が、将軍・家茂が急死を口実に大坂に逃れてからは、肥前や佐賀な
ど九州諸藩は次々と戦線を離脱した。

 もはや戦闘継続不可能と悟った小倉藩は、8月1日自ら小倉城に火を放ち、
藩府を香春(かわら)に移して、長州藩との戦闘を終えた。
 年少だっ小倉藩主は身の安全をはかって肥後藩へ落ち延び、「四境戦争」
とも呼ばれた第二次征長戦は、幕府側が敗退して終わりを告げた。
 図3 海戦の様子を描いた龍馬の手紙

 図4 小倉戦争対陣の様子


            参考文献
 図面引用先
  図2 現在の関門海峡:http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/KOKURA%20WAR%201.htm 小倉戦争
  図3 龍馬の手紙:http://blogs.yahoo.co.jp/yamatetsu1441/12482658.html YAMATETSU物語
  図4 小倉戦争対陣の様子:http://blogs.yahoo.co.jp/yamatetsu1441/12482658.html YAMATETSU物語

写真引用先
  写真11 オテントサマ号(丙寅丸):http://bakumatsu.org/blog/2013/06/takasugi.html/heiinmaru 丙寅丸(長州藩軍艦)
  写真12 ユニオン号(乙丑丸):http://45ryouma.jugem.jp/?eid=51
  写真13 富士山丸:http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/KOKURA%20WAR%202.htm 小倉戦争
  写真14 回天丸:http://blogs.yahoo.co.jp/gurasugo11/folder/344483.html?m=lc 幕末の艦船

小倉戦争参考文献
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/KOKURA%20WAR%202.htm 小倉戦争

http://45ryouma.jugem.jp/?eid=51 ヒダリナナメ45度の竜馬伝

http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/taishi4.htm 坂本龍馬と海援隊へようこそ!!(4)高松太郎 〈土佐〉 

http://blogs.yahoo.co.jp/yamatetsu1441/12482658.html 第二次長州征討・・・いわゆる四境戦争の激戦地

http://ponpoko.hiho.jp/yomoyama/sikyosen.htm 四境戦争

http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-tougou1/kou-moku22/kou-moku22a0.htm 第二次長州征伐

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110112/art11011206320031-n3.htm (31)下関・馬関海峡 長州に協力 幕府軍を破る


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