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 大政奉還(たいせいほうかん)

 安政5年(1858)の対米通商条約締結を巡って国論が分裂し、幕府・朝廷間の意見
の不一致が表面化する中、松平春嶽に請われて越前にいた横井小楠や、大久保一翁・
勝海舟ら開明的な幕臣などによって、大政奉還論(大政返上論)が提唱されていた。
しかし幕府は朝廷の攘夷要求と妥協しつつもあくまで公武合体を推進したので、これ
らの主張が現実化することはなかった。ちなみに皇女和宮御降嫁は万延2年(1861)
のことである。

 一方、雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、一橋慶喜(当時は
将軍後見職)や幕閣との対立を深め、切り札と考えた四侯会議(1867)が15代将軍
に就任した慶喜の政治力により無力化されたため公武合体を断念し、長州藩とともに
武力倒幕路線に傾斜していった。

 このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867)坂本龍馬から大政
奉還論を聞いて感銘を受ける。龍馬の船中八策にも影響され、土佐藩として大政奉還
の建白を山内容堂(前土佐藩主)に上申した。容堂は大政奉還を藩論とすることには
同意したものの、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。曲折はあったが、
10月3日、土佐藩は単独で大政奉還建白書を藩主・山内豊範を通じ慶喜に提出した。

 土佐藩の建白を受け、10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣
を招集し大政奉還を諮問、14日には「大政奉還上表」を朝廷に提出、そのを強く求
めた。翌15日に慶喜を加えた朝議で勅許が決定し、大政奉還が成立した。
(後半に続く)
 (後半)
 この大政奉還は、薩摩や長州など討幕派の機先を制する狙いがあったが、薩摩藩
らの最大の関心事である将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁
としての地位を失っていなかった。

 一方、大政奉還上表の同日(10月14日)、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の
密勅がひそかに渡された。この密勅は天皇による日付や裁可の記入がない異例のも
ので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであったが、これ以降、薩摩藩と長州藩
は大規模な軍事動員を開始し、この動きを制するため慶喜は10月24日に征夷大将軍
辞職を朝廷に申し出る。 しかし、朝廷には政権運営能力や体制がなく、実質的に
慶喜による政権掌握が続くことになった。

 慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあった
と言われる。しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩
(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こし朝廷
を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝
議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決
定し、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

 慶喜は辞官納地を拒否したものの、二条城から大坂城に居を移し、経済的・軍事的
に重要な拠点である大坂を押さえ、12月16日、各国公使に対し王政復古を非難し、
条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。

 しかし、慶応4年1月2日(1868)夕刻、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた
薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、京都の南郊外の鳥羽および
伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態と
なり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人
、旧幕府軍が約15,000人と言われている。

 写真1 二条城俯瞰

 図1 大政奉還諮問会議の様子

 写真2 諮問会議が開かれた二条城二の丸御殿

 写真3 徳川慶喜

 徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、)
 天保8年(1837)〜大正2年(1913)
 江戸幕府最後の将軍/征夷大将軍
 在職:慶応3年(1867)‐ 慶応4年(1868)
 御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職
 など要職を務め、徳川宗家を相続、15代将軍に。
 大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。
 明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。

 写真4 後藤象二郎

  後藤 象二郎(ごとう しょうじろう)
 天保9年(1838)〜明治30年(1897)
  後藤正晴(馬廻格・150石)長男。少年期
 父を失い義理の叔父 吉田東洋に預けられ文武
 を修む。慶応元年(1865)武市瑞山を獄に断。
 慶応2年(1866年)藩命で薩摩、長崎に出張、
 上海を視察し海外貿易を研究した。この頃龍馬
 と深く交わり、慶応3年(1867)龍馬の船中
 八策に基づき大政奉還を提議。新政府で大阪府
 知事や参議、下野し政治家、実業家など。
 写真5 山内容堂

 山内 容堂/豊信(やまうち ようどう/とよしげ)
 文政10年(1827)〜明治5年(1872)
 土佐藩15代藩主
 福井藩主 松平春嶽、宇和島藩主 伊達宗城、薩摩
 藩主 島津斉彬とも交流、幕末四賢侯と称された。
 彼らは幕政改革に積極的だったが井伊大老と対立
 し安政の大獄で謹慎処分になり前藩主の弟豊範に
 藩主を譲り隠居した。しかし藩政の実権は握り、
 文久2年(1862)参政吉田東洋暗殺を機に土佐勤
 王党を弾圧壊滅。その後倒幕指向の薩長に反発、
 大政奉還を目論んだ薩長の主導権を奪えず。
  維新後は内国事務総裁に就任したが、かつての
 家臣や領民身分の者と馴染めず辞職、妾十数人を
 囲う酒色に生活の末、脳溢血で生涯を閉じた。
 図2 鳥羽伏見の戦い戦況図

 図3 鳥羽・伏見の戦いの後、大坂から脱出する徳川慶喜を描いた錦絵(月岡芳年・作、1877)

            参考文献
 写真・図面引用先
  写真1 二条城俯瞰:http://blog.goo.ne.jp/micha_el77/e/aa226575b601b0f63478ffca1108dfbc 京都の風景写真
  写真2 二条城二の丸御殿:https://ja.wikipedia.org/wiki/大政奉還
  写真3 徳川慶喜:http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川慶喜 (説明文も)
  写真4 後藤象二郎:http://amamori.exblog.jp/7521847/ 雨漏り書斎 歴史読本 幕末人の肖像
     (説明文:https://ja.wikipedia.org/wiki/後藤象二郎)
  写真5 山内容堂:https://ja.wikipedia.org/wiki/山内容堂 (説明文も)
  図 1 大政奉還諮問会議の様子 :http://kyoto.pro.tok2.com/shinsengumi/07.htm 大政奉還 静かなる革命
  図 2 鳥羽伏見の戦い戦況図 :http://www43.tok2.com/home/yumc/ahiru_web/new/ike02.htm 我家の近所にある新選組関係史跡
  図 3 徳川慶喜の逃亡 :http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Tokugawa_Yoshinobu%27s_escape.jpg ファイル:Tokugawa Yoshinobu's escape.jpg

大政奉還参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/大政奉還

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1366023463 【山内容堂の大政奉還建白書】

http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川慶喜

http://kotobank.jp/word/大政奉還 たいせいほうかん【大政奉還】

https://ja.wikipedia.org/wiki/戊辰戦争

https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥羽・伏見の戦い


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